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[読書メモ] 歎異抄というすごい本を読み返した

先日、梅原猛さん、そして橋本治さんが亡くなった。

なんというか大学生の頃に影響を受けた人がたて続けに亡くなると、まったく関係のない世界で生きている私でも、ぐっと悼みを感じるものである。

当時、梅原さんの歎異抄を読んだのだが、浅学ゆえに理解しきれなかった。

亡くなったことを機会として、当時の思い出とともに改めて読んでみるか…など不純な動機とも受け止められるが、いまならもう少し歎異抄が理解できるかも?という淡い期待を込めて本を手にとった。

おお…

当時よりも随分と理解ができるようになっていた。
この本はやはり名著なのだ。

今日は多少の引用を交えつつ、自分のメモを走り書きにして残しておきたい。

歎異抄とは


歎異抄とは親鸞の弟子唯円が書いた(と言われている)本。

本が書かれた背景は親鸞の死後、親鸞の本意と異なる解釈が広まったことを嘆き、ちゃんと書かないといけないということで死後にまとめられた。

親鸞は浄土真宗の開祖と言われているが、性悪説に基いた説が有名。浄土宗の開祖である法然が師匠。

仏教の狙いは自ら修行をして煩悩をなくし悟りを開くことが狙い。

当時は難行、自力をもって悟りを開くために修行をする人が多かった。
つまり、修行ができる人が悟りを開けるという教えが広がっていた。

だけど、誰もが救われてこそ仏教。法然はそれに気づいた。

厳しい修行ができない凡人は、阿彌陀佛を唱えると誰もが仏の世界にいけるという教えを広めた。

難行の反対の易行。自分が開くのではなく釈迦さまに救われる。他力という考え方。

ここに深く共鳴したのが親鸞。

他力本願という言葉はここから生まれている。
日本語の中には仏教用語がよく使われている。

嘘も方便とか有頂天になるとかも仏教用語にあたる。

他力本願はもともと仏さまの力という意味。

法然は従来の仏教からこぼれた人に対して目を向けた。

様々な宗教を分類すると、救済型。キリスト教など。仏教は悟り型、修行して自分が転換していく。

ただ、浄土宗は救い型という側面がある。

阿彌陀佛のはたらき

阿弥陀はサンスクリット語に漢字をあてはめた
アミターユス(無量寿)
アミターバ(無量光)
限りない光と限りない寿命という意味から来ている。

南無(ナマス)=おまかせしますという意味
南無阿弥陀仏 この世界に満ち満ちる限りない光におまかせします。

という意味になる。

阿彌陀佛は仏教が持っている救済原理の象徴と呼ばれる

競争社会は努力して到達した人の欺瞞や強欲をつくというのが
努力して報われなかった人を救うのが阿彌陀佛

親鸞は9歳で出家。20年修行(難行)をするが、煩悩が消えなくて苦しんだ。
そのときに法然に出会う。

規制勢力の仏門に疎まれ、罪人としてながされる。京都から佐渡に行き、その後関東へ。資格を奪われ、非僧非俗として子どもや妻がいる状態で、仏門を説く

親鸞は自分が一生、悟ったと言わなかった。
どんなにいいことをしても、影がある。

例えば、震災で愛する人がながされていく。そのときに手を離さないでおこうと思っても離れてしまうことがある。
人生は何一つ思い通りにならない。

だけど、生きていかなければならないのが人間。

悪人正機説

親鸞といえば、この一説だと思う。

“善人なほもつて往生をとぐ。いはんや悪人をや”

善人だって救われるのだから、ましてや悪人こそは…というフレーズだが誤解が生まれやすい。

本願他力の意思に反している。

仏教における善人と悪人を理解する必要がある。

・善人は自分で修行して煩悩を消し去り悟りを開ける人
・悪人はそれができない人

という意味になる。

善人は自分でやっていけると思っている危うさがある。この人は本当に煩悩を滅することができるのか?できない。我々はすべて悪人。
悪人の自覚を持つというのがこの言葉から問われていること。

自分が善人、できると思っている人ほどやっかい。
そう思い込んでいる人はリミッターが外れることになるので、暴走が始まる。

仏教は、物事に対してカテゴライズをしない考え方。偏りが強くなることが一番危ういと言われている。

弟子の唯円は「南無阿弥陀仏を唱えると救われると言われても喜べない」。と親鸞にいう。

親鸞は「自分もそうだ」。と答える。

だから、できないからこそ救われるんだという話。煩悩を抱えているからこそ救われるんだ。

“苦悩の旧里はすてがたくいまだ生まれざる”

親鸞は仏が私を救うという世界から、自分は逃げるということを書いている。

キルケゴールと同じことをいっている。

人生は穴が空いた船の水を救っているようなものだ。安心したら救われない。だからもがき続けないといけないということだ。

また、悪人は煩悩が捨てられない人という意味の他にもうひとつあった。

親鸞の肖像画に鹿の角の杖やたぬきの革が描かれたものがある。

流浪後に当時一緒に過ごしていた街の人たちに猟師や商人がいた。彼らは悪人と言われていた。
その人たちと一緒に過ごし、それらの人が救われるという話

当時の価値観は、殺生は悪(仏教)、穢れ(神道)と呼ぶ価値観があった。

宗教とは社会と別の価値を持つ。社会と同じ価値を持つと宗教の価値がなくなる。

情報化する宗教の危うさ。向き合い方

いま自分が抱えている悩みに対して都合のいい情報をあつめることはとても危ない。

自分の都合のいいものを集めるとすごいものや解決になるかといえばならない。

いい情報というのはそれぞれの物語が体系化されているので、それを辿らないと危ない。

宗教というのはものすごい差別正や暴力性を内包している。
一度、その暴力性が発動すると人間の力では止められない。

だから、さまざまなリミッターを設定していて、それが教義。

つまみ食いするとリミッターが聞かない。

これは現代の SNSでもいえることだろう。

おわりに

古典には良い本がある。
長く読み伝えられている本というのは普遍的な価値が存在するのだろう。
どの部分が価値になっているのか?

”価値”などちょっと仕事っぽい言葉だなと思いながらも、どの時代にも共通する悩みや生き方を学びつつ、いま自分ができることは何か?ということを思い返させてくれる良い機会になった。

梅原さん(橋本さん)のご冥福を心よりお祈りします。



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ありがとうございます。スタッフとコーヒーいただきます。

私もスキ押すので、記事教えてくださいね。
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梅本 周作 / ajike

UXデザイン会社ajike/アジケのCEO。USEN MediaのCXOも兼任。 味気ある仕事をしたいと思っています/デザイン組織づくり/二地域居住/レゲエ好き/たまにがんばります😐https://ajike.co.jp/
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